top of page
イラスト松.jpg

鞠生の松原と明治維新

イラスト松.jpg

 もとは三田尻または高州の松原と呼ばれ、白砂青松の海岸線で、天正十五年(1587)細川幽斎が「まりふの松原」と題し「白銀を敷きたらんようなる白砂に 丈高からぬ浦松の 老い届まりたるが むらむら生きて 云々」と景勝の地をたたえ和歌を詠んだのが地名の起こりとある。
 元中六年(1389)将軍足利義満は、百余隻の船隊を従え九州西下の折、当松原に着く。大内義弘は宿舎を新築して将軍を歓待。一行は折からの強い西風のため西下することができず一週間後、当地から京に帰った。
 慶応三年(1867) 十一月二十五日、薩長連合の盟約がむすばれ、右田毛利家毛利内匠総督、参謀楫取素彦、総指揮官山田顕義などと共に、薩長連合全軍が、ここ八咫烏社(小烏神社)に集結。祭主荒瀬幸雄宮司のもと必勝祈願の後、問屋口から乗船、小田港を船出して倒幕の途についた。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の口火となった地である。

小烏神社3.jpg

鞠生の松原と神社社(児童公園より)

小烏神社3.jpg

小烏神社一の鳥居

Copyright (C) 2020 厳島神社総代会 All rights reserved.

bottom of page